懐かしや、母船式サケマス漁

久々に朝からスッキリと晴れたが、気温はあまり上がらず28℃止まりだったようだ。真夏でこの気温ならワタシ的には大歓迎、このまま秋を迎えたいところだが、そうはいかいだろう。

昨朝録画したBSPの「よみがえる新日本紀行=船団集結~函館」を、今日懐かしく見ていた。母船式サケマス漁業の出港に沸く函館の物語である。

フィルムは昭和46年が舞台、現地事務所でネジリ鉢巻きで電話対応してるのは、のちに母船協議会の事務局長をやったニチロのSさんではないか。

私がマルハに入社したのは2年後の昭和48年。当時は10船団、独航船数334隻だった。母船には固有船員6~70名、社員十数名、さらに加工作業する事業員が三百人以上乗船していたから一母船で約四百人、10船団で4千人にもなる。これに乗組員24~25名の独航船が334隻が加わり、5月11日、一斉に基地である函館に集結するのである。

この日から出港する15日までの函館の賑わいと言ったら、いま思い返しても凄かった。昼の岸壁には独航船の乗組員に挨拶する派手な女性が闊歩し、夜の若松町、松風町は肩が触れ合うほどの混みようだった。出港前夜には見送りの家族、会社・業者の関係者なども来るから一層の賑やかさとなる。

入社仕立ての5年間は漁場で先回りして調査する96トンの先航独航船に乗船し、6年目から漁撈担当として母船に乗船した。昭和59~60年はスリミ河口の底引き母船に移ったが、母船式が終了する昭和63年まで乗船業務が続く。その間母船式サケマス母船事業も減船の連続で10→6→4→3船団となり、最後の63年には8社ある水産会社が共営で60数隻の独航船を率い、一船団の出漁となった。北洋の思い出はそれこそ山ほどある。文才があればそれらをまとめて数冊の本が書けるかもしれないが、到底無理な話である。

圧倒的に懐かしく、ときに寂しい気持ちになりながら番組を視ていた。「昭和は遠くなりにけり」である、、、