終戦記念日

朝から雲に覆われ今にも降ってきそうな天気が続いたが、何とか夕方までもっている。今日は30℃にとどくかどうかの最高気温らしいが、やっぱ、何となく蒸し暑い。

今日は8月15日、終戦記念日だ。戦後生まれの私に戦争の記憶など無論ないが、「進駐軍」という言葉は子供たちの間でも使っていたような覚えがある。

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父の遺品に「軍隊手帳」とそれに挟まっていた「傷痍軍人証」がある。子供の頃戦争のことを尋ねたことはあったが、いつも茶化してまともに答えてくれなかった。手帳に記載されてる履歴を見ると、父は満二十歳だった昭和13年(1938年)12月1日に徴兵され、翌14年5月現役兵として陸軍歩兵116連隊第10中隊に配属。8月には大阪から中国・漢口に渡り、1937年から始まったといわれる日華事変の戦闘に参加している。

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そして14年12月16日潜江県での戦闘中、左大腿部に砲弾破片が当たり負傷した。すぐ切断と言われたそうだが、泣いて頼みこんで免れたらしい。野戦病院を転々としたあと内地送還となり、15年3月広島県宇品港に到着。内地でも金沢、新発田五泉市村松、宮城・鳴子、また村松と転々とし、16年1月ようやく退院・除隊となっている。遺品には従軍証などと一緒に摘出した砲弾の破片(左端)が入っている。

その後傷痍軍人として予備隊に編入、18年2月には母と結婚し翌19年には長姉が生まれている。ずっと招集は免れていたが、終戦間近な20年7月再び赤紙が届き8月下旬の召集が決まったそうな。敗戦濃厚の中で、もし戦場に行けば戦死は必至。ガックリ力を落としていたがその前に終戦となり夫婦手を取り合って泣いたと、のちに母が話してくれた。新潟市は広島、長崎に次いで三番目の原爆投下予定だったと聞く。もし終戦が遅れていたら次姉と私はこの世になく、そう思うと背筋が寒くなる。

現在、自国第一主義がはびこり国際機関が十分機能せず、国家間の緊張が高まっていることが懸念されている。何があっても、戦争は絶対繰り返してはならない。ツーリングに精を出すオジンがいる、このことこそ平和の証しでありますゾ、、、